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銀塩手帖

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銀塩手帖
フィルム、銀塩写真に関する情報を記録していきます。
公開日:2014/11/17

赤瀬川原平の軌跡を辿る「赤瀬川原平の芸術原論 1960年代から現在まで」

photo & text 中村 文夫

去る2014年10月26日、前衛美術家、漫画家・イラストレーター、小説家・エッセイスト、写真家といった複数の顔を持つ作家、赤瀬川原平さんが、逝去された。

私が赤瀬川原平さんを知ったのは1983年。現在休刊中のカメラ専門誌「カメラ毎日」に連載された「カメラが欲しい」というエッセイを読んだのが最初だった。メカニズム至上主義のカメラファンだった私にとって、赤瀬川さんのエッセイはまさに「眼からウロコ」。「こんなカメラの見方があったのか」と感動し、いっぺんに赤瀬川さんのファンになった。
この連載をきっかけに各カメラ専門誌が赤瀬川さんに執筆を依頼。すでに前衛芸術家や芥川賞作家として名を馳せていた赤瀬川さんは、カメラファンの間でも広く知られるようになる。


自宅アトリエ(ニラハウス)でステレオカメラについて語る赤瀬川さん。[2009年7月中村文夫撮影]
赤瀬川さんがステレオ写真に凝り始めた頃、すでにステレオカメラは製造中止。中古品を買うため銀座松屋の中古カメラ市へ足を運んだのがきっかけで、中古カメラにはまったという。

「カメラが欲しい」の連載は「カメラ毎日」1983年9月号でスタート。著者名は、文章「尾辻克彦」、イラスト赤瀬川原平の名前になっている。「カメラが欲しい」は86年に新潮社から単行本として発売、後に文庫化された。
 
「文章はいろいろ書きながらも、『カメラが欲しい』という気持ちを誰にも打ち明けていなかった私に、『カメラ毎日』からの連載の仕事の依頼がきたときには
本当に嬉しかった。感謝します。」後書きに記されている通り、赤瀬川さんは、まさにこの本で、カメラファンであることをカミングアウト。「赤瀬川&カメ
ラ」ファンにとって必読書と言えるだろう。残念ながら単行本、文庫とも今は絶版。だがネットで検索すると、意外と安価で手に入るようだ。
(写真の2冊は私の蔵書)


赤瀬川さんの著書を並べたコーナー。タイトルに「カメラ」を冠した著書の多さに驚かされる。



千葉市美術館「赤瀬川原平の芸術原論 1960年代から現在まで」 会期:2014年10月28日〜12月23日

今、千葉市美術館で開催中の「赤瀬川原平の芸術原論展」は、名古屋市美術館で95年に開かれた「赤瀬川原平の冒険-脳内リゾート開発大作戦」以来の大回顧展。関東首都圏でこんなに大規模な赤瀬川さんの展覧会が開催されるのは初めてだ。展示作品や資料はなんと554点。6〜70年代の前衛美術や漫画・イラストレーションに始まり、80年代にブレークしたトマソンや路上観察まで網羅し、50年にわたる赤瀬川さんの活動のすべてを知ることができる。もちろんカメラや写真関係の作品も充実。「カメラ」を入口にして赤瀬川さんを知った「赤瀬川ファン」も十分に楽しめる内容になっている。

赤瀬川さんはこれまで、さまざまなジャンルの作品を発表してきたが、やはり本サイト「CAMERA fan」の読者にとって興味を引くのはカメラにまつわる展示だろう。ちょっと乱暴はな分け方だが、赤瀬川さんがカメラファンであることをカミングアウトした「カメラが欲しい」以前、以後に時代を分けて作品を紹介したいと思う。


〜赤瀬川原平の軌跡を辿る〜

<作品紹介〜「カメラが欲しい」以前>


赤瀬川さんが前衛美術家としてスタートを切ったのは60年。「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の結成に参加し、63年に「ハイレッド・センター」の活動を開始。なかでも「模型千円札」の「通貨及証券模造取締法」違反による「千円札裁判」は有名だ。そして68年頃から、漫画家・イラストレーターとして活躍。70年代後半には文学の世界にも足を踏み入れ、81年には「尾辻克彦」の名前で芥川賞を受賞した。


下宿にて アフリカ風作品の前で[1958年]撮影者:不詳
前年に武蔵野美術学校油絵科を事実上中退。本名の赤瀬川克彦名で作品を発表していた頃の写真。


第3回ネオ・ダダ展。銀座の吉村益信と赤瀬川原平[1960年]
ミイラ男の左後ろを歩く赤瀬川さん。背景にスキヤカメラ(現在はマツモトキヨシ)の看板が写っていることから、撮影場所は今のジョルジョ・アルマーニ辺りか。



患者の予言(ガラスの卵)[1962/1994年](右)と事実か方法か2[1963年]



復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)[1963年](中央)と事実か方法か1,2(左右)[1963年/1994年]
魚眼レンズ(シグマ4.5mmF2.8EXDC CIRCURSR FISHEYE HSMで撮影)



不在の部屋[1963年/1995年]
作品発表当時、扇風機とラジオは、常にスイッチがオンの状態で、梱包されたまま動いていたという。




宇宙の缶詰[1964年]
缶詰のレッテルを内側に貼り替え、再び缶を閉めて半田付けすれば宇宙が缶の中に包み込まれるという壮大なスケールの梱包芸術。梱包芸術というとクリストが有名だが、これを見せられたクリストは、意味が理解できなかったという。




ホモロジー・男[1964年]
石膏像の顔の部分にカメラを嵌め込んだ作品。使われているカメラは1925年から製造が始まった六櫻社(現コニカミノルタ)製パーレット。127フィルムを使用する折り畳み式カメラだ。この展覧会に展示されている作品の中で初めてカメラを利用。すでにこの頃から赤瀬川さんはカメラに興味を持っていたことが分かる貴重な作品だ。この写真で今回カメラは畳まれているが、図録には蛇腹を伸ばした写真も掲載されている。




ホモロジー・カメラ[1964年]
ホモロジー・男で使用した石膏像の顔の部分をカメラの速写ケースに収めた作品。このほか女性像の股間部分にアクリルパイプを嵌め込んだホモロジー・女という作品もある。



中西夏之・男子総カタログ`63[1963年]
赤瀬川さんが自らモデルとなった巨大な作品。「千円札裁判の弁護側の証拠品として東京地裁の法廷にも持ち込まれた。素材には「青焼写真」が使われていて、写真作品としては、かなり初期のものと言えるのでは?


「漫画主義」No.6ポスター[1968年]
マッチ箱のデザインを元ネタにしたと考えられる漫画評論誌のポスター。「カメラが欲しい」で赤瀬川さんを知った世代は、赤瀬川さんのイラストについて「鉛筆でさっと書いたような、いわば『ヘタウマ』的なイメージ」を抱きがちだが、こんな緻密な書き込みをしていた時代があったとは?


燐寸箱ケースII(時計印ハンマー印)[1969年]
赤瀬川さんは68年「革命的燐寸主義者同盟」を結成し燐寸箱を集め始めた。後にカメラコレクターとして名を馳せる赤瀬川さんの片鱗を感じさせる作品だ。


円盤からの手紙[1977年]
月間「ガロ」77年4月号に掲載された作品。赤瀬川さんは天文専門誌「月間天文ガイド」にコラムを連載するほどの天文ファンだった。この作品のなかでも、反射式赤道儀のピラーのテーブルに丁寧に書き込んだアイピース(接眼レンズ)を載せるなど、筋金入りの天文ファンであったことが見て取れる。

赤瀬川さんが天体観測に使用した双眼鏡(NIGHT OTUS Bs-60iA)
天体ファンなら誰でも憧れる宮内光学製の対空双眼鏡。倍率15倍、口径は60ミリで、OTUSはラテン語でフクロウの意味。通好みの渋い選択だ。赤瀬川さんは74年美学校の生徒と「ロイヤル天文同好会」を結成。このとき使用していたと観測機材と考えられる。また01年、アマチュア天文家の藤井哲也と渡辺和郎が発見した小惑星が、赤瀬川さんに因んでAKASEGAWAと名付けられた。


展示品解説 「カメラが欲しい」以後 〜




絵日記[1987年]
「ユリイカ」に連載された「科学と抒情」(後に新潮社から文庫化、絶版)のために描かれた作品。生まれて初めて魚眼レンズを買ったときの喜びが記されている。中古で買ったペンタックスLXの完成度に惚れ込み、わざわざ新品で買い直したり、アクセサリーのファインダーを中古で揃えたりと、カメラ愛満載の絵日記だ。


トマソン黙示録 真空の踊り場・四谷階段[1988年]
トマソン第一号の四谷祥平館純粋階段は72年の発見だが、後に路上観察の物件写真をもとに版画作品も制作された。


報告用紙「トマソン観測センター」[1983年]
無用の長物トマソンは、「超芸術トマソン」に進化。新発見の物件は、この様式で「トマソン観測センター」に報告され認定を受けた。


紀伊國屋画廊「路上派勝利宣言」ポスター[1987年]
「超芸術トマソン」はマンホールの蓋、建物の破片、近代建築など、さまざまなジャンルを巻き込み、路上観察学会へ発展。85年6月には神田学士会館前で発会式が行われた。



ステレオ兄弟[1992年]
90年代に入り、赤瀬川さんはステレオ写真に熱中。中古カメラ市で手に入れたステレオカメラで撮影した作品を発表する。



「ライカ同盟 三重視」ボスター[1996年]
ステレオ写真でカメラとの関係が深まる中、92年に「14人のイカれた男たち無写苦写会」展に参加。オープニングパーティで、ライカを提げた赤瀬川さんは、同じくライカを愛用する高梨豊、秋山祐徳太子と遭遇する。これをきっかけに「ライカ同盟」を結成。94年に初の写真展「ライカ同盟発表会」を開催した。


カメライラスト〜カメラへの深い愛情〜




アサヒカメラに96年から13年まで連載された「こんなカメラに触りたい」のために描かれた鉛筆書きのカメライラスト。モノクロページの掲載でイラストも縮小されていたので、誌面で見たときは、それほど気に留めなかったが、今回、原画を見てびっくり。細部まで正確に書き込まれているばかりか、鉛筆書きとは思えない階調表現の豊かさには息を飲むばかり。カメラファンにとって、この展覧会の最大の見どころと言えるだろう。ぜひルーペを持参することをお勧めしたい。





ライカIIIg(協力:資生堂)
描かれているカメラについて説明する必要はないだろう。バルカナイトの質感や金属部のローレットの丁寧な書き込みには執念すら感じられる。またレンズ面の映り込みや、決してカメラ本体に掛からない各部名称の傍線の引き方はカメラに対する赤瀬川さんの深い愛情の現れと言えるだろう。


メシルックス(協力:資生堂)
50年代のフランス製カメラ。35ミリフィルムを使用する入門機でボディはプラスチック製。はっきり言ってトイカメラの類だが、赤瀬川さんの手に掛かると、何十万円もしそうな高級機に見えて来るから不思議。




引伸機油彩(未完成)[2012年〜](左)
そのモデルとなった引伸機(ラッキー・エンラージャー)
油彩を完成させた後、赤瀬川さんは、引伸機を梱包し「梱包作品」を制作するつもりだった。


引伸機銘板
台板の側面に添付された銘板。銘板に記された社名から1943年頃、第二次世界大戦中の製品と思われる。



カメラコレクション
赤瀬川さんは、もともとカメラ好きだったが、ステレオカメラを買いに松屋の中古カメラ市に足を踏み入れたことからカメラ熱が再燃。燐寸箱のコレクションが示すようにコレクター癖があったらしく、多くのカメラをコレクションしていた。


展覧会の開催直前、赤瀬川さんの訃報が舞い込んだ。実は11月1日に行われたトークショー「路上観察学会VSライカ同盟」のチケットが運良く当選。もしかしたらご本人に会えるかも、と楽しみにしていたのだが-----。ここしばらく赤瀬川さんは病床に就いていて、最初から参加の予定はなかったらしいが、予定通り行われたトークショー会場で田中長徳さんとお会いするこができた。「それまで中古カメラって言うと、汚いとか貧乏くさいなんて悪いイメージがあったけど、赤瀬川さんが登場してから、誰も中古カメラの悪口を言わなくなった。それどころか、それまで中古カメラに見向きもしなかった人たちが、中古カメラ店へ足を運ぶように。中古カメラ業界にとって赤瀬川さんは大恩人ですよ。」
田中さんの言葉が示すように、まさに赤瀬川さんは、中古カメラを文化にまで押し上げた人。赤瀬川さんがカメラエッセイという新しい文学ジャンルを創り出さなければ、現在の中古カメラ業界の興隆はありえなっかただろう。路上観察に代表される写真の特性を最大限に利用した芸術活動も然り。それまで写真に興味のなかった人たちが路上観察を通して写真に目覚め、一大ムーブメントを作り出した。いずれにしても「カメラ」や「写真」に関する作品は、赤瀬川さんの芸術のごく一部でしかないが、この展覧会を見ると、ごく一部でありながらも非常に重要な位置を占めていたことがよく分かる。「カメラオタクのひいき目」と言われてしまえば返す言葉もないが、やはり「カメラオタク」とって赤瀬川さんは、神様のような存在。これを確認する意味でも、この展覧会は絶対見るべし。




<展示情報>

「赤瀬川原平の芸術論 1960年代から現在まで」
会期:2014年10月28日(火)〜 12月23日(火・祝)
主催:千葉市美術館、読売新聞社、美術館連絡協議会

会場:千葉市美術館
〒260-8733 千葉県千葉市中央区中央3-10-8
Tel:043-221-2311

観覧料:    
一般1000円(800円)、大学生700円(560円)
小・中学生、高校生無料

開館時間:
日〜木曜日 10:00〜18:00
金・土曜日 10:00〜20:00
※入場受付は閉館の30分前まで

休館日:11月4日(火)、12月1日(月)

ウェブサイト:
千葉市美術館
http://www.ccma-net.jp/

「赤瀬川原平芸術原論 1960年代から現在まで」
http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2014/1028/1028.html



中村 文夫(なかむら ふみお)

1959年生まれ。学習院大学法学部卒業。カメラメーカー勤務を経て1996年にフォトグラファーとして独立。カメラ専門誌のハウツーやメカニズム記事の執筆を中心に、写真教室など、幅広い分野で活躍中。クラシックカメラに関する造詣も深く、所有するカメラは300台を超える。日本カメラ博物館、日本の歴史的カメラ審査委員。
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  2014/07/04
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